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A.G.LIVES : KAI YOSHIHIRO

A.G.LIVES
'89.12月に本牧アポロシアター、'90.3月に再びパワステで、さらに10月新宿厚生年金会館でA.G.LIVEとFUNKのダブルイニシアチブを展開。
アコースティックという演奏スタイルの原点へと戻ってさらに研ぎ澄まされた音(サウンド)を聞かせてくれた。
このシリーズのライヴで新たな息吹を帯びてかつての名曲も蘇った。
LPジャケット風の形態で中には金色に輝くペーパーには甲斐のメッセージ、裏面には田家秀樹氏による「解説」が掲載されている。
他に10枚のステージ、オフショットが取り混ざったショットのフォトシート?があった。
印象的なショットに歌う顔をアップにした2枚にハープを首から下げてマイクに向けて歌っている1枚がある。
この頃の甲斐は髪の毛がワイルドに長くそのステージ展開にマッチしていたと感ずる。
映像で見れる部分も多く、アポロシアターのライヴはビデオで市販され、パワステのA.G.は地方TVで放映され、さらにミッドナイト・エクスプレスというJR大阪で終電後に行なわれたミッドナイト・ライヴにもA.G.スタイルで松下誠と出演し各方面から絶賛された。(ハズだ・・)
A.G.LIVEとカップリングで行なわれたダブル・イニチアチブのFUNK UP NIGHTでは文字通りファンクなステージングを行い、こちらもビデオで市販、WOWOWでの放映(曲目が違う)が行なわれ、久々に他方面に向けてアピールしてた時期であった。

SWEET SMOOTH STAIEMENT OF THE A. G. LIVES


アコースティックな触媒(楽器)による新たなスタイルの

LIVEという意味においてのA.G.


さらにもうひとつの楽しみ
"ANOTHER GROOVE"という意味でのA.G.


"ANSWER TO MY GENERATION"
我々の世代に対してへの解答という意味のA.G.


HEY ! WANT DO YOU WANT ?

Yoshihiro Kai

解説


    解体と構築---------
    甲斐よしひろがソロになってから試みてきたことは、こんな言い方ができるのではないだろうか。
    解体。
    それは具体的には、甲斐バンドという存在をさすはずだ。
12年間、不退転のロック・バンドとして時代を走り続けてきた栄光のものを一度自分自信の音楽で徹底的に解体してみせること。
バンドを解散したときに、誰もが持つ、過去への未練やノスタルジックを粉砕してしまうこと。
彼は、丸二年かけてそのことを実践してみせた。
    ただ、そんな行為は、甲斐バンドをいうBIG NAMEに対して向けられたものだったのではなかったと、最近、思うようになった。
あのメンバーがいて、出来上がっていた甲斐バンド、という集団に対してではなく、"バンド"という定型化したスタイルそのものに対しての根底的な問いかけを続けていたのだという気がする。
    そんなことに気づかせてくれたのは、去年の12月に、横浜の本牧アポロ・シアターで行なわれたアコースティック・セッションだった。
あの夜、わずか五百人の超満員の客の前でくり広げられたステージは、誇張でもお世辞でもなく、"こんなの見たことない"という内容だったのだ。
    一般的に、アコースティックという言葉は、"生ギターを中心にした、生楽器を使った演奏"というイメージで受けとめられているのに違いない。
そして、そんなイメージは、さまざまな"反動"として語られることが多い。
たとえば、テクノロジーの発達の反動だったりハードなサウンドの反動だったりする。
デジタルな方法論に対しての反動が、今、アコースティックとして表れている・・・・などという語られ方だ。
つまり、アメリカのニュー・エイジ・ミュージックの語られ方に似ている。
現代社会の忙しさやあわただしさに疲れたビジネス・マン達が、心をいやすためにアコースティックなものを求めている・・・・式の語られ方だ。
    少なくとも甲斐よしひろが試みようとしていることを、そんな一般的な概念で捕らえることはまちがいだ。
根本的に方向性が違う。
まず、第一に、彼は、疲れてもいないし、やすらぎなんぞ、これっぽっちも求めようとしていない。
彼が、アコースティック・セッションに求めていることは、全く逆だ。
中途半端なやすらぎなど捨て去った、身を焦がすような、妬けつくような音楽的衝動だ。
    彼が解体しようとしていたのは、甲斐バンドという名前ではなかったのではないか、とはじめに書いた。
甲斐バンド、という存在なのではなく、"バンド"という様式化されたスタイルそのものに対しての問いかけだったように思う。
    たしかに、ロック・バンドの魅力の中に、様式性という要素は大きい。
なま身のメンバーが、バンドという集合体を作りあげていく。
その様式性は、時間がかかっている分だけ極められていくことは、ローリング・ストーンズの例を思い浮かべれば十分だろう。
そして、ぼくらが甲斐バンドに魅かれていたのも、そこにあったように思う。
    彼が見せてくれたアコースティック・セッションは、"様式性の革命"とでも呼べるものだった。
    曲により編成が変わる。
時には生ギターとウッド・ベースだけだったり、時には、チューバとハーモニカだけだったり、これ以上考えられないようなシンプルなスタイルで演奏される。
個々のメンバーが、自分の技量を十二分に出し切った形で絡みあう。
そして、そんな演奏の中で、甲斐よしひろのヴォーカルは、力強い。
    アバンギャルドではない。
かつて、モダン・ジャズの中の前衛として登場したフリー・ジャズのように、解体自体を自己目的にしているのではない。
様式性を解体しつつ、メンバー個々の音楽性を発揮していく。
それ自身がドラマであるようなスタイル。
演奏者自身の音楽的衝動が、にじみでてくるようなスタイル。
「結局、音楽っていうのは、人生が見えるかどうかだと思う。」
    たしか、その時、ステージで彼は、こんな言い方をしていたように思う。
    いま、彼は、新しい構築に向かっている。
"いろんなことをやってみたい"などという子供っぽい欲求ではなさそうだ。
多様性が欲しいのではないのだろう。
本当に技量のある人間どうしが、自分の人生というやつを表現しあえる。
その時、その時の衝動を音に出しながら、それでいて、なおかつバンドという形になっている。
それはアコースティックという呼び方も超えている"究極のセッション"の定型化という、途方もない試み、なのかもしれない。

田家秀樹

BAND


Vocal
KAI YOSHIHIRO

Guitar
MAKOTO MATSUSHITA

Bass
YASUO TOMIKURA

Drums
MASAHIRO MIYAZAKI

Saxophone
AKIO SUZUKI

Key Boad
KEN SHIMA