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Kai Band

   about Kai Band Kai Band | Kai Yoshihiro | KAI FIVE

甲斐よしひろ、大森信和、松藤英男、長岡和弘の4人で結成されたバンドでデビューは1974年、先輩格にチューリップを置き現に「チューリップの弟バンド」という位置付けもされていた時期もあった。
世はまだフォーク時代、ロックというジャンルはまだ日本人バンドとしてはメジャーじゃない時代。
フォークともニューミュージックとも違い世の中の認識に当てはまらないバンドであったのかもしれない。

サウンド的にはデビュー当時、甲斐のソロの延長という部分もあったせいか、フォーク路線調ではあったが甲斐バンドの実質的ファーストアルバム(ここではあえてそう呼ばせて頂く)「英雄と悪漢」は既に単純に「フォーク」と片付けられない怪しい光を放ち、バンドとしてのスタイルが出来つつあった。
その後時代に流されず逆に先取りする形でいつの時代も新しいチャレンジをして、アルバム制作、ライヴ活動をしていった。

元々ドラムの松藤はギタリストだったりでそれぞれのプレイヤーとしては上級のバンドではなかったかもしれないが、後期にはツイン・ドラムやリズムセクションがしっかりしたバンド構成(ライヴ)へと発展するとはこのデビュー時には想像も出来なかったであろう・・・。

一般に「TV嫌い」とされる傾向のあるバンドだが初めから出演もしないで「遠ざけた」訳ではなかった・・・。
当時よく見ていた番組などにもCharなどと出演しているのを何度も見た事もあった(丁度、裏切りの街角やテレフォンノイローゼとかの時だ)・・・他の公開録画のライヴなどでも・・しかり・・・。
色々言われる前にバンドはTVという媒体はしっかり試して吟味していた・・・そして・・・バンドはTV避けるようになった・・・「自分の場所はここではない」と。
その中、1979年は「HERO」で幕開けしたような年だった・・・。SEIKOのCMでメンバーが登場しバックに流れる印象的な歌、それが「HERO」だった。
チャート番組では「HERO」が週を追うごとに上位に上がっていった、お茶の間の方も「いつこのバンドの姿を見ることが出来るのだろう」と期待を持ってTVを見ていた頃である。
そしてバンドはそうした歌謡番組に全国を追いかけられるようになる。
TV出演は「ザ・ベストテン」で1979年3月15日ついに実現する・・・しかも放映チャンネルのスタジオではなく、NHKで甲斐が持っているラジオ番組の公開録音スタジオからの生中継という異例の状況を持ってだった。
ここで今でも語り草になっている「水割り事件」が起きる・・・甲斐としてみれば自分のラジオ番組の公開録音の場での話。リラックスしてしゃべりに生演奏にとファンと楽しんでいる場・・・・しかしTVカメラを通して茶の間に渡った瞬間から切り離されたものとして、映されているだけでしか理解されず「生放送で水割りを飲むとは何事か」と当時の世論は反発したのだった。
今の時代には大して問題にもならない小さな事でも、この当時は型にはめたモラルでものを言われる時代だった・・・。
結局この放送を最後にバンドとしてTV出演する事も無くなった・・・それは解散する間際の「夜のヒットスタジオ」で最後のお披露目をするまでは・・・・。
そしてそのバンド最後に出演した番組で歌われたのは、TVから歌詞の事で蹴られそうになった「BLUE LETTER」とTVドラマ主題歌だった「漂泊者」だった。
2つのTVというメディアに関連した曲で甲斐バンドとしてTVとの最後の決別をしたといってもいいかもしれない・・。

「HERO」で一躍まさにヒーローになった甲斐バンドであったが、この時期ベースの長岡和弘が脱退、その後解散まで正式メンバーとしてのベーシストは永久欠番になっていた。
(後に長岡はプロデューサーとなり斉藤由貴などのアルバムを世に送り出す)
バンドも1979年の武道館ライヴで一旦の頂点を極めたこと証明して見せた。そして新たな展開にバンドはステップアップして行く・・・。
ライヴ盤にも収録されている甲斐の言葉「79年のドラマはすべて終わりました、俺たちは80年代に行きます」そして歌われた「100万$ナイト」。
このライヴ盤を聞いて思うこと・・・それは女性ファンの黄色い歓声が多いこと・・・まだ骨太のロックというスタイルよりは、女性のキャーという歓声の方が目立っているのが判る。
でも、ここで歌われた「100万$ナイト」は次に進むべきバンドのスタイルの元があるように思える。
次作「地下室のメロディー」で新たなサウンドを持ち込み新しい甲斐バンドを印象付けた・・・たたみ掛けるような激しいギターのリズムで始まる「漂泊者」、打ち込みによる「ダイヤル4を廻せ」など80年代を強烈に意識させバンドは昇華しようとしている・・・そんな感じだった。
しかし古くからのファンの拒絶がなかったワケではなかった・・・そうして去っていくファン・・・新しく獲得したファン・・・甲斐バンドはさらに大きなバンドとなったのである。

破れたハートを売り物に」でパーカッションを多用したステージを展開したり、「」 、「GOLD」、「ラヴ・マイナス・ゼロ」らのアルバムをボブ・クリアマウンテンとニューヨーク3部作を完成させて両国国技館初のロックバンドとしてライヴを行う。
甲斐バンドは箱根、花園、新宿副都心、ホテル宴会場などおよそライヴ会場には考えられないような場所でのライヴを決行!また、相当の観客動員を行なってきたし、オーディエンスのルールってものを確立した日本のロックバンドという側面も持つ。
その頃にはかつてARBで活躍していた田中一郎が正式メンバーとして向かえられツアーに同行していった。
元々一郎はアルバムでは古くから参加しており「もう一人の甲斐バンド」というスタンスはあったと思う。
リピード&フェイド」で4枚組実質ソロアルバムという異質なアルバムを発表。
86年に大森(g)の不調を理由に「真夏の花火のようにパッと・・」解散する事となり前年に発表されていたツアー「BEATNIK TOUR1986」はツアータイトルを変え「PARTY」となった。
解散コンサートツアーらしからぬ湿っぽさを感じさせないステージは、武道館5日間連続公演で甲斐の「サンキュー、じゃあね」の言葉をもって終演を迎えた。
(実際には全国より抽選でチケットを手に入れられた幸運なファンは、黒澤フィルムスタジオでの最後の公の場でのライヴを見ることが出来た。この模様は甲斐バンドの映画「HERE WE COME THE 4 SOUNDS」の中に挿入され、ライヴ盤「Secret Gig」によって見聞き出来る)
バンド解散の後、甲斐はソロ活動に入る・・・。

1996年に解散10周年として「Big Night」再結成ライヴを行う。世はまさに再結成(リユニオン)ブームの中において海外ではイーグルス、キッス、などビッグバンドがかつてのメンバーで集まり、今の音を聞かせる流れが出来ていた。
我々の年代層も70年代に聞いて育ったあのバンドが復活するというニュースに狂喜したものだった。
この時の甲斐バンドは期間限定ではあったものの、メンバーが集まるとそこにマジックが生まれるという風に、かつての名曲の数々をアコースティックアレンジでアルバム化、そしてツアーはエレクトリックに展開をかけ全国ツアーに周った。
さらに98年2月27日には福岡サンパレスにおいて「ONLY ONE NIGHT」と題した1日限りの再結成ライヴを行う。(このステージが実質再結成の期間満了だったか・・)
これは博多時代に世話になったKBCの岸川氏に捧げるステージでアンコールを含めて20曲を歌い上げ、このライヴは「伝説ライヴ」と呼ばれKBCラジオで放送もされた

約半年の活動を経て再結成バンドは一旦封印。
しかし、1999年も暮れようとする11月に甲斐が新高輪プリンスホテル・飛天にて25周年記念のライヴを行い、そのメインイベントで甲斐バンド復活!!甲斐によって招待された(普通は飛天の間なんて入れないでしょ?そういう場所でライヴをやること・・すなわち招待されたのだ)ファンは酔いしれた。
このステージの後、実は静かに甲斐バンドは活動を始める・・・そして新たに新曲「トレーラー・ハウスで」が発表され、甲斐のソロと同時進行(?)の形態で活動。
白いブランケット」「甘いkissをしようぜ」とシングルを発表、ついでアルバム「夏の轍」が発表され、ツアーが決定する。
2001年夏にはあのツアータイトル「BEATNIK TOUR」が使われ、新たな予感と共にツアーを皆が楽しんだ。
それはかつての甲斐バンドの名曲と新曲が公演地毎にスペシャルな形で挿入され演奏されていく新旧ファンにたまらない内容だった。


2004年7月我々は甲斐バンドの偉大なるギタリスト、大森信和を失った。
あの会場一杯に広がる鳴きのギターが聴けない。
ステージ上で甲斐とのツーショット・シルエットが見られない。
全てが嘘のようだ・・・。
気がつけばもう七夕です・・・大森さんは七夕の星になったのですかね?
今でも忘れません・・・・どうか安らかにお休みください、貴方の事は決して忘れません。

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